山中幸盛(鹿介)と三日月

戦国名将伝等を読んでいるうちに、七難八苦の言葉で有名な山中幸盛について調べてみたくなった。
そうするうちに、今度は幸盛のシンボルである三日月の方も気になってきたので、合わせて書いておくことにする。

【山中幸盛】

●キャラクター
山中幸盛は、尼子十勇士の一人にして武勇に優れた熱血武将だ。山陰出雲の国(現在の安来市)で天象4年(1545)に生まれた。幼少時には父はなく、母手のみで育てられてたが、それでも強者となって13歳のときに敵の首を討ち取っている。いや、最初に相手を討ったのは、わずか8歳のときだったという。生涯に戦で討った人数は、確実なだけでも66人ということだ。幾つかの話では、一人で十数人相手に圧倒的多数を斬り伏せることもたびたびあったという。戦国武将の中でも戦闘力で幸盛に匹敵する者は、そう多くはいないと思われる。

山中家の家宝である彼の兜には、三日月と鹿の角がシンボルとしてついている。、銅像や絵画では彼はいつもこの兜を被った姿で描かれている。この鹿の角にちなんで、彼は今でも山中鹿介、あるいは山中鹿之介という呼び名の方で親しまれている。

幸盛は、三笠山を照らす三日月に対して、「願わくは、我に七難八苦を与え給え」、と祈ったという。一部の現代人のような被虐趣味があったわけではない。日夜己を鍛え、武勇を極めたいと自ら艱難辛苦を望んだものと言われている。古今東西のかなりの英雄でも、めったにこんなセリフは言えるものではないだろう。行く手に困難があればあるほど燃えてくるという不敵な熱血タイプの人物だったのか。

但し、単なる熱血漢かというと、知略にも優れており、部下にも公平に接していたと評されている。戦の際には兵士の不安を聞くなど、アドバイスもよくしていた。こういう性格は、「友達や仲間を見捨てるような人間には決してなってはなりませぬ。」、と他所の子供たちもわけへだてなく可愛がった母のしつけによる面も大きかったようだ。

●生涯
幸盛は、元から人生の成功や自分の利益などは意に介さないような所がある。仕えていた尼子氏は永禄9年(1566)、毛利氏に月山富田城で篭城して戦うも兵糧がつきて敗れてしまう。その後に、幸盛は尼子家の御家再興のために三度にもわたって尽力し、三日月への願かけ通りに波乱万丈の人生を送ることになる。

①最初の復興戦
幸盛は毛利氏(元就)に対して、尼子復興戦を挑むことになる。その第一戦である。幸盛は、出雲を出た後に各地の情勢を見聞していた。そして、京でついに尼子の遺児の勝久を見つけて、復興軍を立てる。そして、毛利氏が豊後の大友氏に向けて行軍したあとを狙い、出雲を取り戻す戦を始める。多くの城を落とし勢力も増して再興の可能性も出てきた。しかし、最重要拠点である月山富田城の陥落を目前にして、幸盛は彼方の友軍の危機を知る。「城のためとはいえ、ここで味方を見捨てることはできぬ。」 好機を逃して、友軍を救った幸盛たちに、九州からとって帰った毛利氏の大軍二万五千が襲い掛かる。尼子軍も七千を越えてはいたが尼子十勇士の何名かを失い、海上でも制海権を強力な毛利水軍に握られて物資補給と交通路を絶たれ、ついに敗れてしまう。

結局は、勝久ともども幸盛も個別に捕虜となった。しかし、力押しばかりでない幸盛の機略がここで発揮される。「ネズミばかり食っておったせいか、腹下りでどうにもならぬ。あるいはやりの病でコロリと逝くかもしれぬ。」 幸盛は頻繁に厠に籠り、下痢気味でふらついた様子を見せる。油断した警備の隙をつき、幸盛は京に逃亡する。するとそこには何と勝久も逃れてきており、主従は再び合流することになる。「われらの運は、まだまだ尽きてはおらんようだな。」、と二人は顔を見合わせて笑う。

②第2戦
織田信長と同盟を結んで、因幡でまた尼子を復興させることになる。そしてまたしても、毛利に敗れ、逃げるハメになる。

③第3戦
信長に従って、播磨で尼子を復興させる。しかし、なおも毛利に敗れてしまう。まさに月の満ち欠けを繰り返すような戦いであった。ついに勝久は弟とともに切腹を迫られる。「もはやこれまででございます。主には真に申し訳ありませぬが、兵をこれ以上討ち死にさせるには忍びなく、お腹を召していただく他はありませぬ。」、と幸盛は頭を伏せます。「何の、今までよう働いてもらった。わしもそちがおらねば坊主のまま燻っておったところよ。おかげで随分と面白い思いをさせてもらった。満足じゃ。」、とにこやかに答える勝久だった。「義理立てには及ばぬ。お主の器量にはまだまだ使い所があろう。」

主を看取った幸盛は、毛利に下ったその夜も三日月を仰ぐ。三日月は細く光っている。
「わしの運命は、はなから三日月にまかせておる。行く先が満月になろうが、新月になろうが、どちらの盃であろうとも選ぶところはないわい。出された盃を飲み干すのみじゃ。」 
 (津本陽氏の時代小説のような感じで主人公の独白を入れてみた。)

次の日、幸盛の前に刺客、綿抜左馬介(卯月一日左馬介)が現れる。(史料では福間元明に謀殺されたとも言われるが、左馬介の方が聞こえが良い。)「主に腹を切らせておきながら、お前はおめおめと生きるつもりか。晩節を汚さぬよう、拙者が引導を渡してやる。」
もはや戦う気持ちもなく、幸盛は討たれる。まだ30代の若さだった。

【三日月について】
半月には「上弦の月」、そして「下弦の月」がある。半月が別名弓張り月とも呼ばれるのは、弓に弦がまっすぐ張られた様に似ているためである。

(A) 「上弦の月」は、月が地平線(または水平線)に沈む際に中央の弦が上になっている(暗い半分が上)とする解釈がある。しかし、これだと地平線(または水平線)から上る際には、天空を半周分戻った状態ということになるので、月の上下が逆転した関係になることに注意しておく必要がある。同様に「下弦の月」は、月が地平線(または水平線)に沈む際に中央の弦が下になっている(暗い半分が下)とする。

(B) 「上弦の月」は、月の満ち欠けが新月から満月に向う期間を指し、「下弦の月」は満月から新月に向う期間を指すという解釈もある。この解釈は、つじつまを合わせたのは良いが、語源的説明の根拠はいささか苦しいようにも感じる。

おそらく昔の人々も多くは最初の(A)の解釈をしていて、矛盾に気付かなかったのか、あるいは気付いてもあえて修正しようとはしなかったので、矛盾が発生しているような気がする。古代の感覚的かつアバウトな理解と近代の科学知識は必ずしもうまく折り合わないかもしれない。古代人も専門家ならば月の満ち欠けや暦に関しては結構詳しいところもあるが、大部分の一般民衆はそうでもないだろう。

と言いながら、上の話も最後の部分では幸盛が三日月に対して後者のイメージを念頭に置いていることにした。そうすると、三日月には「上弦の月」の期間に属する三日月、そして「下弦の月」の期間に属する三日月の二つがあることになる。それは、次第に半月(やがては満月)へと近づく復興の三日月、そして新月に近づく衰退の三日月である。

弦の上下をイメージした三日月だと、月を盃に見立てた場合に、上弦でも下弦でも時間帯によっては中身がこぼれることになるので、月の象徴が状況の悪化と結び付けにくく、偶然にもそのときにやられたという感じが強い。
だが、もしかするとそちらを好む人もいるかもしれない。

兜の前立てにつける三日月であれば、配置としては見た目から上弦でなければならいが、同時に満月へと大きく成長する可能性が見込まれる「上弦の月」の期間に属する三日月をイメージする必要がある。

真言密教では、常に円満な満月をイメージする月輪観(がちりんかん)を教えている。現実の月は外光の影響で常に形状が変わるように見えるが、月の本体が自ら輝くならば、それは不変であるということらしい。幸盛のような人はそういうことも越えている。


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